「私は生産性がないから……」
「私は生産性がないからな……」
そんな言葉が、いつも頭をよぎっていました。
仕事をしていた頃も、休日にパソコンに向かっていないと「何もしていない自分」が落ち着かず、モヤモヤしていたのです。
そして、仕事を辞めてからはその思考がさらに強くなりました。
辞めた直後は、心がスコーンと空まで突き抜けるくらい体が軽くなったのに、ふとしたときに「生産性のない自分」に不安を感じてしまう――そんな毎日でした。
「給与=価値」だと思っていた
私は長年、公務員として働き、自分でお給料を得て生活してきました。
「給与=生産性の証」という感覚が、私の中に強くあったのだと思います。
今は夫が働き、その収入で私の暮らしが支えられている。
それが申し訳なくて、「私は何もしていない」と感じることがよくありました。
家にいるからこそ、見えてきた価値
でも、家にいると、いろいろなことが目に入るようになり、それを少しずつ整えていくうちに、生活はぐっと快適になりました。
経済的な知識も得られ、ムダな支出も減りました。必要なものだけを選ぶようになった結果、
「支出を減らせた分が、私の稼ぎなんじゃないか」
と思えるようにもなったのです。

つい「引き受けてしまう」癖
私は昔から音に過敏で、仕事中に周囲の声が耳に入ると、つい気になってしまい、「それ、私がやっておきますね」と引き受けてしまう。
そうやって自分の時間がどんどん削られ、仕事を家に持ち帰ることも多くありました。
また、PCが得意そうというだけで、イベント用のパワーポイント作成やDVDの編集などが私にまわってくる。
こういうことは当然夜中仕事です。42枚のDVDを焼いたこともあります。
感謝されても、なぜか「嫌だな」と思った瞬間
「ありがとう」「感動したよ」と言ってもらえることもありました。
でも心のどこかで、
「またやってしまった」
という後悔がよぎることもありました。
私の“メリハリ”がもう少し機能していれば、もっとラクに生活できていただろうに……そんなエピソードがたくさんあります。
人のために動きすぎて、自分がすり減っていた
そんなふうに、私はいつも“誰かのため”に動いてきました。
もしかすると「私がやりますオーラ」を自分で出していたのかもしれません。
休日に道の駅で観光客に道を聞かれたときも、説明しても通じず、最終的に
「ついてきてください」
と案内した自分に、あとで笑ってしまいました。
「人の役に立ちたい」けど、しんどかった
結局、私は人の役に立ちたい気持ちを手放すことができなかったのです。
でもそれが、私をずっと疲れさせていたとも気づきました。
今の私にとっての“ちょうどいい”距離感

今は「組織に属さない」ことが、私にとってちょうど良いバランスだと感じています。
会いたい人と、ちょうどいい距離感で関わる暮らし。
お仕事をしている方には「何を言っているの?」と思われるかもしれません。
でも私は、人との距離をうまくコントロールできないからこそ、今のように「自分のペースでいられる暮らし」が合っていると感じています。
🌱まとめ:役に立たなくても、私はここにいていい
あの頃の私は、
“自分の存在価値=誰かの役に立つこと”
だと思っていました。
でも今は、
「自分のために過ごす時間」にも価値がある
と気づけました。
誰かの役に立たなくても、
何かを生み出していなくても、
ただそこにいるだけで、十分。
そう思えるようになったのが、私にとって大きな“手放し”だったのかもしれません。

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