🌿50代で生き方を選び直した元公務員のあじっちです。
かつては「ちゃんとしなきゃ」「人との比較をこっそり」と思い詰めていましたが、
今はもっと自然体で生きたいと思えるようになりました。
そんな私の再出発の記録が、どなたかの励みになれば嬉しいです。
普通ってなんだった?「理想の母・妻・公務員」になろうとしていた私
私の奥さん像や母親像は、やはり育ててくれた実の母や祖母がベースになっています。
母は働き者で、施設の調理師として朝早くから夕方まで忙しくしていました。4時半に起きて家族の洗濯やお弁当、朝食を用意し、5時半には出勤。夕方早めに帰ってくると、そこから農作業や晩ご飯の支度をし、片付けを終えてから一息つくのは夜の10時前という日々。祖母は一日中農作業をこなし、洗濯物の取り込みや孫の世話、巻き風呂の火の準備までこなしていました。
そんな家で育った私は、「母親とは」「妻とは」こうあるべきだという思いを自然と抱くようになりました。
母は忙しくて疲れていたため、私はいつも母の機嫌をうかがいながら行動していたように思います。その反面、祖母には心を許していて、甘えたり、時には悪態をついたり。祖母が旅行に出ると、帰ってきてほしくて小学生の私は宿泊先を探して電話したことさえありました。
祖母の代わりは母ではだめだったのです。
安定志向と「公務員」という選択
実家では火事も経験し、「安定した暮らし=公務員」という考え方が自然と染みついていました。兄たちも公務員を目指し、私も進路を考えるときは同じ道を意識していました。
人と関わることのしんどさと、自分を責める気持ち
高校時代、私はよく学校を休んでいました。人が多い環境や集団生活に疲れてしまうのです。中学では打ち込んでいた部活も、高校では続かず、次第に「さぼっている」と見られるようになっていきました。そのことに悔しさを感じながらも、「一人で練習できるなら…」と自分を正当化していた部分もあります。
学校ではいつも明るくおどけている「あじっち」でいることを自分に課していて、疲れていても元気に振る舞っていました。でも本当は、人と関わるとどっと疲れてしまう自分がいて、そのギャップに苦しんでいました。
会話の中で突然スイッチが切れる感覚
中でも不思議だったのが、普通に友達と話している最中に、「いま自分は自然体で接している」と気づいた瞬間から、急に会話がぎこちなくなること。そんな感覚が何度もあって、自分でも理由がわからず悩んでいました。
今振り返ると、それは脳の疲れや発達特性からくるものだったのかもしれません。
当時は誰もそんなことに気づくはずもなく、「疲れている」「さぼっている」としか見られていなかったけれど、自分なりに必死でがんばっていたんだなと、今は思えます。本当は感受性が強く、疲れやすい私だった
感受性が強く、傷つきやすい子ども時代
保育園のころ、おにぎりが大きすぎるのが恥ずかしくて先生に「お弁当を忘れました」と嘘をついたことがあります。今思えば、5歳の私が自分の気持ちを表現する手段を知らず、ただただ苦しかったのだと思います。
そんな小さな経験の積み重ねで、私はどんどん感受性が強くなり、些細なことで心が揺れ動くようになっていきました。
「あじっちなら大丈夫」と言われることの重さ
仕事でも家庭でも、「あじっちに任せておけば大丈夫」と言われ続け、どこかで無理をしてしまう日々。「できない」と言えない自分がどんどん追い詰められていきました。
一方で、ママ友や近所づきあいでは話が続かず、コミュニティに馴染めない自分にモヤモヤ。
発達特性に気づいたとき、やっと自分を許せた
ブログを通して実体験を綴るなかで、読者の方から「ASD的な傾向もあるのでは」と言われたとき、私はハッとしました。調べれば調べるほど「そうか、これが私なんだ」と腑に落ちていく自分がいました。
今までは「努力不足」「性格の問題」だと思っていたことが、実は脳の特性からくるものであり、無理しても叶わなかった理由がそこにあったんです。
まとめ:普通を目指す、やっと私になれた
「普通」という言葉を目指してきた50年。
でも今、ようやく「自分らしく生きる」ことに目を向けることができるようになりました。
昨日眠かったのも、「脳が休みたい」と言っていたから。そう思えるようになったことが、私にとっての大きな一歩です。
これからも、「ちょっと疲れた私」とうまく付き合いながら、ありのままの自分を受け入れていきたいと思います。
最後まで読んでいただいてありがとうございます。
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