今は、毎日をおだやかに過ごしています。
ただ、ふとした瞬間に、あの頃のように「しなければならないことが複数重なる」状況を思い出すことがあります。
仕事も、人間関係も、家族との関係も、全部がんばっていたあの頃。
胸がドキドキするような記憶が、今でも一瞬、フラッシュバックのようによみがえることがあります。
でも今は、時間に追われることもなく、静かに過ごせる毎日に救われています。
そばで見守ってくれる夫には、何度感謝しても足りません。
今日は、そんな私が「外向きの安心を手放したこと」で心と体に起きた変化について、書いてみたいと思います。

【忙しくて当たり前だった頃の私】
かつての私は、公務員として働きながら、仕事も人間関係も、そして実家の親戚づきあいまで全力でこなしていました。
「がんばって当然」
「ちゃんとして当然」
そんな空気を、自分自身に強く求めていたと思います。
気がつけば、自分の時間は常に“だれかのため”に費やしていて、
本当の意味で、心が休まることは少なかったのかもしれません。
【地元の人間関係が“空気のように重たかった”】
私が育ったのは、田舎の小さな町。
“人とのつながり”が強くて、それがコミュニティの「誇り」でもありました。
でもその裏では——
「誰がどこに就職したか」
「〇〇さんの子どもはどうしてるか」
「離婚したらしいよ」
そんな噂話が、日常茶飯事のように飛び交っていました。
晩ご飯の食卓には、おかずの隣に“人のうわさ話”が並んでいて。
いま思えば、噂話はもうひとつの“食材”だったのかもしれません。
【“外向きの安心”に、しがみついていた】
そんな環境で育った私は、知らず知らずのうちに「人からどう見られているか」を人生の基準にしていました。
・どこに勤めているか
・家を持っているかどうか
・夫婦関係や家族構成
そういうものが“ちゃんとしている”ことで、安心していたんだと思います。
でも、それは本当の安心ではありませんでした。
体は、ずっと先に限界を知らせてくれていました。
頭痛、蕁麻疹、ギックリ腰、そして喘息。
ストレスや緊張がずっと続いた結果として、体が声をあげていたのです。

【「手放してよかった」と思える今】
仕事を離れ、生活ががらりと変わった今。
時間に追われず、ゆとりのある毎日を過ごせていることが、どれだけありがたいことかと思います。
何度も夫に「ありがとう」と伝えます。
こんなふうに生活を見守ってくれる存在があることに、心から感謝しています。
私は無宗教ですが、30代の頃、釈迦や親鸞の本に出会ったことがあります。
二人とも、偉大な教えを持ちながらも、その始まりは「深い迷いや苦しみ」だったと知り、妙に共感したのを覚えています。
人生が静かになった今、ようやくその意味が少しわかる気がしています。
【まとめ:やっと見つけた、本当の安心】
昔の私は、「人にどう見えるか」ばかりを気にして生きていました。
仕事も、家も、家族も、「ちゃんとしていないとダメ」と自分に言い聞かせていたのです。
でも、外向きの安心をいくら重ねても、心の奥はどこか空っぽで。
本当の安心は、“人の目”ではなく、“自分の内側”にしかないのだと、今になってようやく実感しています。
長年抱えていた価値観は、そう簡単には変わらなかったけれど、
私の体が、静かに変化のきっかけをくれました。
いま、少しずつ、心と体がほどけていく感覚を大切にしながら暮らしています。
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